川瀬浩介|KAWASE Kohske

作曲家・美術家|MUSIC × ART

ベアリング・グロッケン II (2009)

《ベアリング・グロッケン II》(2009)

BEARINGS GLOCKEN II (2009)

BEARINGS GLOCKEN II (2009)


BEARINGS GLOCKEN (2006)


BEARINGS GLOCKEN II in Istanbul 2010


BEARINGS GLOCKEN II in Nantes 2013 [Part 1]


BEARINGS GLOCKEN II in Nantes 2013 [Part 2]


BEARINGS GLOCKEN II in Nantes 2013 [Part 3]


[展示歴]

2015 上海モーターショー2015
2013 Festival Scopitone @ Stereolux(フランス・ナント市)
2012 スマートイルミネーション新治2012
2010 文化庁メディア芸術祭 in イスタンブール2010 @ Pera Museum 2010 第13回 文化庁メディア芸術祭 受賞作品展 @ 国立新美術館

2009 第4回世界トライポロジー会議
2009 感性価値創造ミュージアム in KOBE
2009 第10回SICF 10th Anniversary グランプリアーティスト展
   《ベアリング・グロッケン II》世界初演
2008 心ある機械たち @ BankART1929
2006 NSK ベアリングアート展 Smooth Sailing for BEARING
   《ベアリング・グロッケン》発表(世界初演)

ベアリング・グロッケンの哲学『Philosophy of BEARINGS GLOCKEN』

2006年11月に発表した作品《ベアリング・グロッケン》初号器。 その、世界初演の機会となった展覧会・NSKベアリングアート展「Smooth Sailing for BEARING」の全容を記録したドキュメントブックが完成した。

この記録は、関係者だけに配布されるものだそうで、一般の方は入手できないのが残念なところ。展覧会前の準備段階から取材/記録が始まり、開催期間中はもちろん会期終了後、さらには年末年始の貴重な時間までもが編集/デザインに費やされ仕上がった渾身の内容のドキュメントブック…ページをめくるたび、あのときの記憶が鮮明に蘇ってくる。編集に携わった全ての皆さんにお礼を伝えたい。

この記録のために、展覧会終了後、アンケートが送られてきた。「作品について、ひとこと、自由に」と書かれていた箇所…私はその「自由に」という部分に、大きな勘違いをしてしまった。 この場合、「自由=発想」を意味するわけだが、私は「自由=文字数」とすっかり勘違いしていた。そして…気付けば、5000字に及ぶ原稿を書き上げてしまっていた。

実際のドキュメントブックには、私の長大な原稿を巧みに編集していただいた文章が掲載されている。この場を借りて、お礼とお詫び、申し上げたい。 しかし、この5000字に及ぶ原稿…よくよく読み返すと、なかなか、有意義な内容だ。この作品が誕生するまでの貴重な記録として…それから、自分が創作を行う意思、想い、哲学がたっぷり詰まっている。 そこで、オリジナルの原稿を、ここで公開することにした。 一部、加筆、修正を加えている旨、予めお断りしておく。

まずはその前に、《ベアリング・グロッケン》とはなにか? もう一度、おさらいしておきたい。


世界一丸いと言われるベアリングの球の性質を利用して、 鉄琴を自動演奏させる楽器=《ベアリング・グロッケン》。 球の跳躍の様子が、実際に鉄琴を演奏する際に用いるバチの動きをイメージさせる。 無骨な筐体からは想像できないほど豊かな響きを実現した鉄琴の調べと 鍵盤上をリズミカルに跳躍していく鋼球の視覚的効果は、 世代、性別、国籍を選ばず、多くの人の視線を釘付けにする。 「衝撃的にチャーミング」な作品。


「ベアリングを使って展覧会をやるから、アイデアを出してみないか? 2006年春のある日、こんな連絡が届いた。 「作曲家の私に、ベアリングで何をしろというのか?」 最初に話しを伺ったときは、こんな調子で、全くピンとこない状態だった。正直なところ、まともなアイデアが出せるとは思っ てもいなかったのだが、とにかく、社会科見学のつもりで、世界のトップメーカーの工場の様子を見られたら楽しそうだな…それくらいの感覚で参加することにした。 ベアリングといったら、「摩擦ゼロ」を追求している製品だ。当然、余計な振動も徹底的に排除されるべく、日夜開発が進められていると聞く。一方、音楽家である私は、日常的に「摩擦」や「振動」によって放たれる「音」を使って創作を行っている。バイオリンは弓で弦を擦ることで音が鳴るわけだし、ギターは、弦が振動することで音を成す。「摩擦」や「振動」を抑え究極までに静穏性を高めていこうとしているベアリングと「摩擦」や「振動」を有機的に組み合わせることで調べを奏でていく音楽…まったく接点が見つからなかったというのが本音だった。

だが、展覧会に向けたオリエンテーションでのディスカッションや実際に工場見学へ伺うと、当初の不安は一掃された。想像していた以上に、ベアリングが「音楽向き」な素材であることに気付かされたからだ。同時に、ベアリングは「音」についても実にシビアな姿勢で開発が行われていることにも驚嘆させられた。その姿勢は、音を扱う身として、とても共感を覚えるものだった。それは、私にとって、衝撃的といえる体験となった。 中でも、ベアリングの静穏性とそれを実現するために大きく貢献している「真球に限りなく近づけられたベアリングの球(=鋼球)」のお話が印象的だった。そのお話を伺っている最中から、既にいくつかプランが頭に浮かび始める。実際にご提案さし上げたのは次の3つ。

1.不良のベアリングが放つ摩擦音を使ってメロディを奏でる楽器《ベアリング・トーン》。回転数を上下することで、音程をコントロールしメロディを奏でる。

2.均一に反発し跳躍するというベアリングの球(=鋼球)の性質を利用して鉄琴を自動演奏させる《ベアリング・グロッケン》。跳躍する球の軌跡がアンサンブルを成し、同時に、音楽を奏でる。

3.ベアリングの静穏性を訴求すると同時に、現代の都市生活では失われてしまった「静寂の尊さ」を見つめ直すための《ベアリング・ガーデン》。「静寂の象徴」と称される龍安寺・石庭を、無音のまま回転し続ける無数のベアリングのジオラマで「実寸のまま再現する」壮大なインスタレーション(この作品は、いつか必ず、キャリアの中で実現する!)。

この中から、様々な諸条件を考慮し、実際に制作されることになったのが《ベアリング・グロッケン》というわけである。 「真球に限りなく近い状態まで仕上げられている球」 それだけの精度で完成された鋼球を水平の面に落下させると同じ軌跡を描いて反発し一直線上に跳躍していく…その跳躍する軌跡が、私には何かに似ているように思えた。それが、鉄琴を演奏する際に使用するマレット(バチ)の動きであると気付くまでには、さほど時間は必要としなかった。 《ベアリング・グロッケン》の制作が始まってから、作家の立場としてこだわったのは、2点。

ひとつは、とかく分離していると思われがちな、「科学や技術」と「表現」は、常に共に歩んできたことを訴求すること。 もうひとつは、「生音」によって演奏を実現すること。

簡単なことのようでいて、実はこれらを実現することが最も難しい。だが、高い技術力を誇る日本精工との共同制作による作品発表は、これまで独り内に秘めていた想いを公にすることを可能にしてくれる絶好の機会となる…そんな確信めいたものがあった。

なぜだろう? 機械や電気を使うと、それは「アート」ではなく「テクノロジー」だと形容されることがしばしある。しかし、アートは常に、テクノロジーとともにあった。ベアリングの原理を発明したのは、あの、レオナルド・ダ・ヴィンチだと言われているが、彼の足跡をたどれば、それは自明の理。音楽家の立場から、もっとわかりやすい例を挙げてみよう。例えば、「ピアノ」。誰しも一度くらいは、その内部の構造を見たことがあるはずだ。それはまさに「テクノロジー」である。ピアノは、恐らく当時最先端の精巧なテクノロジーなくしては完成されなかったと言っても過言ではないだろう。無論、ピアノだけではない。全ての楽器は、テクノロジーの集合体なのだ。実に当たり前のことであるが、音楽家は、そうした楽器達=テクノロジーを操ることで、自らの調べを奏でるのである。

ふたつめの「生音」について。これは、制作過程で、エンジニア側と常に意見が割れた部分でもあった。当然である。生音を鳴らすということは、球が着地する面=鍵盤を振動させなければならない。その状態を想像してみてほしい。常に振動する着地面に次々と球が落下してくるわけだ。そこで誤差が生じ、安定した跳躍は保証されなくなり、同じ軌跡を描けなくなる可能性が高まっていく。もちろん、代替え案も浮上した。鍵盤に球が着地するタイミングをセンサーでキャッチし、予め用意しておいたサンプリグされた音を鳴らす…あらゆる可能性に対処できるよう準備する必要のあるエンジニアの立場からすれば、それこそまさに正しい姿勢と言える。だが、どうしても「生音」での演奏に挑戦したかった。

少し歴史を遡ってみたい。音楽を聴くという体験は、そもそも、「生」でしかあり得なかった。あらゆる民族音楽や宗教音楽…東洋や西洋など地域によるの差もなく、全ての音楽は「生演奏」によるもの…それが前提だった。西洋のクラッシック音楽が体系化されると、「譜面」というツールが発明され、出版物として「流通」する時代が訪れた。すると一気に西洋音楽偏重の時代が訪れる。その流れの中で、さらに時代が進むと、録音技術が開発され「レコード」というものが登場した。今度は、実際の「音」としての流通が始まることになったわけだ。 その後、レコードはいくつか形態を変えていき、今では遂に、形さえなくなり始めた。昨今、急速に浸透しつつある、データによる「音楽配信」の時代へと突入している。「音楽は無形の表現」。そう思えば今の流れは、音楽本来のあり方に戻ったかのように感じられる。だが、重要なのは、流通させる方法ではなく、それを、どのように体験するか、ということ。趣味が「音楽鑑賞」という人の中で、果たしてどれだけ、実際の「生演奏」を聴く機会を持つ人がいるだろうか?

「コンサートにはよくいく」といっても、多くは、マイクによって集音され、アンプによって音量が増幅された状態で我々の耳まで届くような環境である。それは、本来の「生演奏」とは似て非なるものだ。 今や音楽は、携帯電話でも聴ける時代となった。音楽が、これまでのいつの時代よりも身近になっているのは確かかもしれない。だが、「目の前で実際に鳴っている音」の豊かさや力強さ、激しさを、もっと知ってほしい。身近なツールで音楽に興味を抱いたなら、それをきっかけとして、もっとその醍醐味を味わってほしい。生音による演奏にこだわったのは、そうした想いからだ。

完成した《ベアリング・グロッケン》は、実に豊かな響きを奏でてくれる。さまに「そこに音楽が宿る」感覚を存分に味わうことができる音色だ。もしかすると、楽器メーカーが作るよりも、いい音色かもしれない。そんなことさえ思ったほどの出来映え。見事である。一音一音に量感がたっぷりあって、贅沢な響きをしている。さらに余韻も十分に長め。これだけ充実の「鳴り」を実現できたことには、驚かされた。恐らく(いや、確実に)、楽器の制作は初めて手掛けられたに違いないにも関わらずこの成果…この驚きを的確に表現する言葉を私はまだ持ち得ていない。

この《ベアリング・グロッケン》は、実のところ、音域は1オクターブしかない。それも白鍵のみ(つまり、ハ長調)。フィナーレの部分では、ハーモニーを奏でるよう作曲しているのだが、限られた音域だけに、音が密集しすぎている部分がいくつかある。通常なら、こうした密集した和音だと、相当に音が濁って気持ち悪い響きになるはずなのに、この《ベアリング・グロッケン》は、なぜか心地よく響いてくれる。その不思議さは、未だ解明されないままだ。

最後に、楽曲の構造について触れておきたい。この《ベアリング・グロッケン》では、1列につき4音の鍵盤が並べられ、それが4列、計16音の音程によりアンサンブルを展開していく。配列は次の通り。

1  ド  ミ  ソ  シ
2  レ  ファ ラ  ド○
3  ド○ ラ  ソ  ファ
4  ソ  ファ ミ  レ 注)○はオクターブ上の意

各列につき、1台ずつ、球の落下タイミングを制御する発射装置が取り付けられている。「発射」ではなく「落下」。ここに注目してほしい。つまり、初速度を与えているわけではなく、各球は、いずれも、自由落下させているだけだということ。一度放たれた球は、当然、その後の制御は不可能となる。1列上に設けられた4つの音を全て鳴らし終えるまで、跳躍していく。 この4つの音列の順列組合せで楽曲は構成され展開していく。主題(テーマ)となるのが1列目。そこに球が投入されると、和音を分散させたアルペジオが鳴り始める。聴衆はまず、球が規則正しく跳躍するその様子に驚き、同時に、それが音階を奏でていることに気付いて、最初の発見をする。2列目へ球が投入されると、アルペジオが組み合わさり旋律と化す。ドレミファソラシド——もっともなじみ深い音階。

その先の展開は、球を落下させるタイミング、順番を工夫することで、メロディに変化がもたらされ、ときに和音も奏でるよう設計されている。中盤、続くコーダへ向かう直前に、あえて1小節間、休符を挿入した。コーダへの期待感をよりいっそう募らせるためだ。 コーダでは、4つの球すべてが同時に投入され、メロディと和音が絡み合いクライマックスへと向かう。フィナーレでは、落下タイミングをさらに調整し、16分音符によるトレモロを再現。よりダイナミックな演奏と球の軌跡を堪能することができる。 繰り返すが、この楽曲は、4つの音列の順列組合せでしかない。にも関わらず、これだけ多彩なシーンが創出できる点に、是非、注目してもらいたい。それこそまさに、「技術」と「表現」、「テクノロジー」と「アート」が共にあることを証明した瞬間であるからだ。わずか90秒ほどの楽曲の中には、こうした「発見」「驚き」のポイントがいくつも用意されている。

展覧会会期中、私の計算通りの、まさにお手本のような反応を示してくださった方がいらした。きっとその方は、あの日のことを、ずっと遠い未来まで覚えていてくださることだろう。

神奈川県・藤沢にある日本精工の工場では、私の無理なオーダーを現実のものとするために、製作チームの皆さんが、膨大な時間をかけて、様々な技術的検証を行って下さっていた。そのために製作期間の大半が費やされ、「作品」としての細部に渡って煮詰める時間が足りなかったことが、いま思えば、唯一の心残り。特に、デザインの部分は、もっと時間をかけたかったのが正直なところである。

しかし、鍵盤もあえて、ピアノのような「鍵盤」をイメージさせるデザインを指定しなかったのは、正解であった。ここから、何が起こるのか? 聴衆は、きっと、様々な想像を巡らせたはずだ。工業製品のようにクールで無骨なルックス…まずこれが「楽器」だと想像する人は少ないはず。そして、奏でられる調べのチャーミングさも、その見た目の無骨さとは対称的でユニーク。こうした驚きがあるからこそ、多くの人が、この楽器に愛しさを覚えるのではないだろうか? たまに演奏をミスするあたりなんて、まるで、つかまり立ちしたばかりの赤ん坊を見つめるような気分にさせてくれる。これから成長を重ねて、立派に活躍してほしい。

もしも、我が子(あえてこう記そう)に未来があるのなら、次は兄弟を増やして、《ベアリング・オーケストラ》を結成したいところ。それがどんな調べを奏でるのか? 《ベアリング・グロッケン》の調べを味わった皆さんには、きっともう、聞こえていることだろう。

《ベアリング・グロッケン》── この楽器との出逢いを、大切な人に思わず伝えたくなるような…そんな存在になってくれることを、私は願ってやまない。

川瀬浩介 2007年2月

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